2010年8月

鳥目じゃないよ。Bird’s Eyeを持つエンジニアに期待大!

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DeNAとGREEがエンジニア獲得でも火花を散らしている。中途採用決定者に200万円進呈とか。さすが成長産業です。

エンジニア中途採用に対する「入社準備金」制度の発表が相次いでいる。

エンジニア限定ってところが今までと大違い。ネット時代、それだけエンジニアの価値があがっているということです。素晴らしい。

楽天は2006年頃からエンジニアの大量採用に踏み切っていたのですね。
そして、楽天出身のエンジニアが立ち上げたベンチャー企業が多いのが気になります。
・GREEの田中さんが楽天エンジニア出身社長の元祖
・kakaku.comにbuyoutされた4travel.com
・nanapi
・カウポンのkiramex
そのほかにもあるに違いない。

一昔前のエンジニアといえば、、、
技術がわかる(自称)偉い人で、わかりやすい言葉で人と話すことができず、上から目線のとっつきくい嫌な感じの人。。。
と書くと身も蓋もないですね。ここまで極端ではないにしろ、技術がもたらす価値によって一般の人が受けるメリットを理解したり伝えたりすることができずに損をすることが多かったのです。手先は器用なはずなのに、不器用で気の毒な感じ。

1990年代半ば。外部講師が招かれた某大手メーカー社内で開催されたマーケティング講座に参加した時のこと。
同じグループには半導体開発のエンジニアがいました。彼の参加理由は、「マーケティングを理解して開発の無駄をなくしたい」
何でも、彼が所属している半導体の受託開発部門では、お客さんがいつ何が欲しいか解らないから、考え得る製品仕様を全て開発しておくとのこと。しかも、いつ注文があるかもわからないので、ある程度の数量を全製品ストックしておくとのこと。
30代に差し掛かった彼がようやく「なんだか無駄が多い」と気づいたそうですが、その部門の誰もが今までのやり方に疑問をもっていなかったとか。なんといいますか、あまりにも愚直すぎます。

いまどきのWeb系サービス開発では、ソフトウェアエンジニアがユーザーの指向や動向を予測し、短スパンでリリースしつつフィードバックを得ながら改良&次の企画だてを行うという特徴があります。エンジニアがユーザー目線、マーケター資質を備えている。楽天エンジニア出身のベンチャー会社が多いのは、ユーザー視点で開発を考えることができ、自分の取り組みたい市場を見つけることができるからではないでしょうか?

SONYの盛田さん&井深さん、HONDAの本田宗一郎さんもエンジニアですよね。

鵜飼の鵜でもなく、目先しか見えない鳥目でブロイラーな鶏でもなく、全体を未来をも俯瞰できるBird’s Eyeなエンジニア時代再び。世界を席巻して欲しいわ。



(残念な昔のエンジニアは目先の技術にしか興味がなかったり、技術の価値を上手に伝えることができなかったり。。)

負ける予感がした1995年。

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天安門事件やらバブル崩壊やらの年に、仕事に自立と国際性を求め、消去法でIT業界にエンジニアとして就職した私。

畑違い入社の私とは異なり、その年に設立されたシンガポール法人の現地採用社員は、ITの専門知識があり理論的で意欲的、穏やかな性格でやさしくユーモアもある。頭脳、知性、人物全てにおいて優秀でした。
当時のシンガポールは初等での英語教育推進時期で、英語教育で育った人は一部でした。シンガポール人社員は子供の頃から英語で育った、つまり、良い教育を親が授けた恵まれた人たちだったのです。
(でも、言語こそ民族性を表すというもの。自国言語を捨てて英語での教育に走る国に、誇りを捨てたような違和感を私は感じました。英語公用化は、小国がサービスで成長するための戦略の一つだったのです。)

1990年代初めに、私は念願かなってシンガポール長期出張となります。
「なぜそんなに優秀なのに日本の会社に就職したの?」と彼らに質問したところ、
「日本の会社は技術力が高く世界中で尊敬されている。給料もよく、安定していて首を切られる不安もないので、仕事に打ち込むことができる」との答え。1990年代初頭の大卒シンガポーリアンにとって、当時の在シンガポール日本法人は憧れの就職先だったのです。エンジニアも事務職で採用された人も、みんな満足そうに仕事をしていました。輝かしいJapan as No.1時代のお話です。

シンガポール法人は、政府に納入された製品のメンテナンス・開発のための子会社でした。日本から出張・出向する人は、彼らにスキルトランスファーを行います。日本人が培ってきた知識や技術を海外の人に教えるという構図です。1960-70年代を海外工場立ち上げとスキルトランスファーに従事した父と同様に、これから益々発展するIT分野で同様な仕事ができ、私はうれしく、先人の積み重ねを誇りに思ったのです。

この構図は数年で崩れ去りました。
1995年。ジュリアナ東京は閉店したけどヴェルファーレができて、バブル崩壊したというのにテレビ広告業界中心に余韻覚めやらずまだまだ踊り呆けている頃です。

当時、アメリカのテレコム市場開放に呼応した新しいプロジェクトが立ち上がりました。製品企画はごく一部の日本人メンバーで行っていました。そこに海外の子会社でまだ20代後半な彼らが、新製品のコア部分に大胆に提案してきたのです。提案内容は、開発環境としてJavaを採用し彼らがコアプログラムを開発するというものでした。

1.まだ実績のないJavaをいち早く基幹システムで採用すべきという点が斬新でした。(Javaの基幹システム採用は1998年ごろから一般化しはじめる)
2.子会社の外人社員が、頼まれてもいないのに親会社に逆提案してくる点も画期的でした。
3.それを受け入れ、彼らをコア部分の検討メンバーに迎え入れた日本の大企業もたいしたものだったと今では思います。

私が驚いたのは上記1,2,3いづれでもなく、
「なぜ彼らが新しい技術にいち早くリーチでき、信頼性が大切な基幹システムに実績もないうちに採用を提案できるほどの確信を持てたのか?」
という点です。

彼らが私に見せてくれたのはJavaに関する最新の研究論文です。彼らは大学のネットワークを通じ、最新のソフトウェア技術動向に常にアクセスしていたのでした。

今ではインターネットで最新の技術動向は簡単に検索できるし、論文も全て英語というのは当たり前なので、この話はピンと来ないかもしれません。

1990年代後半。ものづくり大国ニッポンのハードウェア偏重文化に加えて、最新ソフトウェア技術が英語圏で生み出されることの関心不足と、いみじくもJapan as No.1の自負があるために自前技術で全てまかなえるという発想が障壁になり、ソフトシステム分野で日本は遅れをとっていました。
アメリカにとっては1980年代の日米貿易摩擦後に導入した新しい政策の成果でしょう。ソフトシステムの最先端は米国となり、研究成果は英語で世界中に流通するようになりました。
シンガポール社員は米国留学経験はなかったのですが、英語教育で育ったため、障壁なく最新研究に接することができたのです。

このままでは、日本は素通りとなる。

せめて、英語情報に気軽にアクセスできるような環境だったら、日本人技術者もシンガポール人のようにリアルタイムで最新研究に接し、潮目の変化に気づけたかもしれません。ソフトウェア工学にパッションのないド素人な私は、シンガポール人の提案で現実を知り、時代に取り残されそうな日本を見て愕然としました。今まで見てきた夢はなんだったのだろうかと。

今の日本の若い人達は新しい技術提案やサービス制作ができるほど、ソフトウェア開発の実力がついています。ハードではなく、ソフト教育に力を入れる必要を感じた関係者の方々の危機感伴う尽力もあってのことだと思います。

日本は貯金を切り崩すがごとく、ものづくり技術を流出させていますが、他国はこの間、先端分野に投資を続けてきたのです。
未来への投資を止めてはいけない。
20年で日本が得た教訓ですが、次なる分野への選択的投資はまだ見えない。ならば、新しい世界を見据えた自己投資だけは忘れないようにしたいものです。

ユニクロ&東レの理想的な躍進。なのにGDPで中国に抜かれるって?

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蒸し風呂で有名な京都の夏よりも暑く感じる今年の東京。本日も各地で38度超え。
この暑さの中、ユニクロは「ヒートテック」を発売したとか。2010年秋冬の販売目標は7000万枚。昨年の1.4倍だそうです。私も1昨年初めて購入し暖かさで手放せなくなり、昨年沢山購入しました。

ヒートテックは東レが開発した新素材を利用して初めて暖かさを提供できる機能性商品。ユニクロが東レとの強力なパートナーシップにおいて、付加価値の高い素材をいち早く独占したからこそ他アパレルメーカーの追随を許さない独走状態に入れたわけですね。

・R&D、素材開発、原料調達、素材・中間財生産などの技術的側面→東レが担当
・商品企画、商品製造、マーケティング、ブランディング、販売の企画流通面→ユニクロが担当

という、スピードとパッションが保てる『餅は餅屋』のパートナーシップ。
1社で全部門を持ってしまうと、技術屋は単なる技術バカに、マーケは周回遅れに陥りがちな日本企業にとって、お手本となる理想的な組み方。他の会社、特にリソースが限られている中小企業に真似して欲しい。

さて、ユニクロの商品生産拠点は中国ですが、東レによる素材量産もおそらく中国。研究と企画は日本。生産は中国。販売は全世界。衣料に限らず、家電も食品も、量産するものはこのパターンがほとんどでしょう。

日本企業による海外生産、海外販売。どうやらこの数字はGDPには反映されない。それでは日本の産業競争力が正しく反映されないなと思っていたところ、2010年の4-6月はとうとう日本が中国にGDP世界第2位の座譲るとのニュースが。そんなの当たり前だ。既に国内で生産し輸出する加工貿易モデルは終了し、日本企業が海外で生産し販売する時代なのですから。

GDPの低迷は産業空洞化にもありますが、消費文化が一段落し成熟を迎えていることも要因だろうなと思っていたところ、マネックスの松本大さんが別の視点。

人口とGDP「マネックス社長 松本大のつぶやき」より

世界のGDP分布は、産業革命までは人口の分布とほぼ同じでした。

何故なら一般にGDPの70%以上は個人消費だからです。
それが産業革命によって生産技術などが一部の国に占有され、GDP分布は大きく変わっていった訳です。

それがインターネットの普及により、様相が全く変わりました。

産業革命によって偏在した生産技術が、そしてあらゆる情報が、また世界中に還元していった訳です。
そして世界のGDPはまた人口分布に近づいていこうとしている。これが私の理解です。

新興国が成長しているのには、それらの国が何か特別なことをしているというよりも、このような当然の、現代の歴史的ステージの中で避けられない出来事として起きているのだ

国家がGDPにこだわるのは、国内生産=雇用という面よりは=税収という面からでしょう。
フラット化してしまった世界のなかで、緩衝作用がごとく、労働が高賃金国家から低賃金国家へ転移しているけど、いずれ緩衝作用がごとく、低賃金国家と高賃金国家の賃金差はなくなるでしょう。そのスパンは2-30年でしょうか?その間に産業誘致の国家間競争もおきるわけで、緩衝作用といえども動きはダイナミック。

本当にフラットになり、全世界賃金均一になったとしたら?

そのときは、地域での偏在こそが存在要因である、文化が差別化要因として注目されそう。

ユニクロ&東レのパターンでは、得意分野であるこだわりの技術力に加え、こだわりの高い日本の消費者がはぐくんだ商品企画・マーケティングで全世界の企業に対し差別化を行っています。

企画・マーケティングでも差別化しているっていう点も、一歩進んだ事例ですね。

世界に類を見ない高レベル消費者である日本人が好む、fine,neat,kawaii文化がもたらす製品やサービスが、どうすると世界に伝わり魅了できるのか、ユニクロのマーコムに注目していきたいです。

消去法だったけど正解だった選択。

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天安門事件の年に日本のIT企業で新入社員となり、世界中にインフラを納入するセクションに配属された私。父が各国の現地工場立ち上げのため子供の頃から長期出張で寂しい思いをしていたけど、
「自分も将来は父のように色んな国で働いてみたい」
という望みがかなったわけです。

でもエンジニアという職業は、自分の思い描く社会人像のための消去法で残ったもの。積極的な選択ではなかった。
自分の職業選択の条件としてあげたのは以下のもの。

  • 女性でも一生働くことができること
        →当時の大卒女子に人気だった銀行や商社の事務員は結婚退職が推奨されるので駄目。
         スキルが身につく職業を探さないと。
         女は馬鹿が意のままにできてよいという男尊女卑(古!)、
         学問は短大で十分、
         専業主婦になれという風潮がまだ残っていた時代(今では信じられない価値観ですね)

  • スキルが身につき、かつ、転職も可能な業界
        →同じところにとどまり続けることができないだろうと思って。飽きそうだから。

  • 父のように海外で働いてみたい
        →ので、可能性のある業界。商社じゃ女性は無理だから他で。

のめり込んでいたバイオ系研究職を断念し、2週間ほどの情報収集と自己分析で得た結論は見事に正解でした。

というわけで、プログラミングはできないし、ソフトウェア工学にパッションもない(というか、ド素人)新入社員だったわけです。(今では考えられないほどのポテンシャル就職?かと思います。)よく、香港法人の現地採用社員に「なんでお前みたいのが紛れ込んでいるのさ?」と、からかわれていました。

それでも、OJTで1年かけて学び開発したプログラムは世界中に売れ、1年目にして1生分(数億円)を売り上げました。これは、たまたまそういうプロジェクトに配置されたためで、私はラッキーでした。

かといって給料がよくなるわけではなかった。仕事の効率がよいので残業代がなく、むしろ同期よりも収入は少なかった。他にもつらく壮絶なことすらありますがここでは書きません。

自立と国際性を望んでの職種選択でしたが、人材は既に国際競争時代に突入していることを天安門事件やらバブル崩壊やらの数年後に知ることになります。本エントリーはその前フリ。

「希望を捨てる勇気」その1

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「希望を捨てる勇気」その0を書いて1ヵ月半。うう。この間、私には希望がなかった。希望ってなんだろう。
失われた20年。日本は低迷しています。もはや低迷が当たり前で不感症状態です。

成長分野に投資するのが継続成長の基本なのですが、いつまでも国外へ出て行った製造業に頼り、次の成長分野を見つけて挑戦していないのがそもそもの誤りなのです。明治時代の殖産興業では、繊維産業から造船へ終戦直後は鉄・重電から弱電器・自動車へと、成長分野に主力産業をシフトし成長続けた日本が、とうとうつまづいてる。なんかくやしいなあ。

1980年代、次の成長へのシナリオはあったのに。
私が中学生の頃にみせられた未来のへ青写真は、
「新エネルギー」「バイオ(医療、食糧など)」「サービス」だった。石油に頼ることなく十分なエネルギーが自給でき、輸入作物に頼ることなく食料もバイオテクノロジーによって安定生産でき、長寿は進むけど医療の発達で皆元気というのがイメージだった。全ては高付加価値産業のため、知力が重要になってくると。いろんな国が豊かになり往来が活発になるので英語は大事ですよと。

しかし、当時世界最高レベルだった教育のレベルを下げ、投資もやめてしまった。学力テストでは日本はずっとダントツの世界一だったのにね。

成長分野への国家レベルの投資が手薄ならば、起業すればよく、実際に起業しやすいよう各種規制緩和が行われました。しかし、開業よりも廃業・倒産のほうが上回る昨今。

この本の77pによると、昔は日本はベンチャー精神あふれる国だったのだそうだ。
1964-66年、廃業は多く44%だけど、新規開業は2倍以上(90%くらい?)

まあ、戦後から復興する時期で、「腕一つでやってやる」みたいな意気込みの人が多かったのでしょう。多くは中小企業から独立する人だったのだそうです。

みんなが明日を信じて希望をもてる時代だったから起業も多かった?
全体が成長軌道ににっていて、みんなが夢いっぱいでないと希望って持てないのだろうか。
起業が少なく廃業が多く若者の失業率が高いのは、希望がないせい?希望って個人の中に宿るものじゃないの?

今が内向きで暗いのは、単に「成長分野をよく見ていないからでは?」という気がしてきました。今現在ばかりを見て、未来を想起していない。既に世代交代を迎えているはずの大企業を見ていたら、そりゃ希望はないですよ。

つづく。

Amebloやってます